先代のコラム
- 軽井沢 夏の店 昭和30年代
羞恥心と季節感について
近ごろの夏は暑くない
薄物の季節になりましたね。
麻や、紗、絽の透けるきものの美しさは、まことに日本の夏の季節感を表わした独特のものと思います。昔は、上布や絽の透けるきものを、いとも涼しげに軽やかに着た女性が多かったものです。今はどういうわけか、きものは暑いからと、夏だけ洋服になってしまうかたが多いようですね。
夏は暑いからとおっしゃいますが、観念的にそう思い込んでいらっしゃるんじゃないでしょうかー。わたしにいわせれば、近ごろの夏は暑くないと思います。たいがいの家庭にはクーラーが備わり、外出ともなればタクシーは冷房車、そして外出先はほとんど冷房完備というわけで、うだる暑さの中で誰でもきちんときものを着ていた昔に比べると、夢のような時代になったと思います。それなのに夏は暑いからと頭から決めてかかり、きものを敬遠する、そして、失礼ながらあまりお似合いにならない洋服を着ていらっしゃる。こどもの時から洋服で育った年代のかたたちはともかく、きもののほうがずっとお似合いになる年代のかたまで洋服になってしまわれる。日ごろ、美しいきもの姿を見なれているだけに、似合っていない洋服姿が残念でなりません。
死ぬまで羞恥心を持つ
人間が衣服をまとうようになったのは、寒さを防ぐため、皮膚を保護するため、からだを隠すためと諸説がありますが、わたしは人間が羞恥心を持つようになって衣服を身につけるようになったものと考えます。裸は恥ずかしい、隠さなければいけない、隠して、そして少しでも美しく見せたい、そんな気持ちで衣服を着、衣服が発達してきたのだと思います。
羞恥心を持ち、みにくいところを隠そうとするところに、動物と違う人間らしさがあり、美しくなりたいと願うのは人間の本能だと思います。この場合、美しいということには正しいということもはいります。美しくなりたいと思わない人は、仕事も何も、美しくできるはずはありません。人間は、男でも女でも、美しくなりたいという願いをいつも持って努力しないと、美しい、正しい人間にはなれませんね。
女性の場合は特に羞恥心がその魅力になっていると思います。若い時は誰でも羞恥心を持ち、自分が美しくなるように心をくだきますが、年齢とともにそれが薄れ、身のまわりをかまわなくなります。若い時の羞恥心を死ぬまで持つ、それがほんとうに女らしい女性といえるでしょう。女性はどなたでもそうあってほしいと思いますね。
というわけで、羞恥心があれば、いくら涼しくても、身軽でも、似合わない洋服をお召しになるなどということはないと思いますが…。
教養の高い西欧の服をまねる
それでもなお「いや私はとても暑くてがまんできないから夏は洋服にしたい」と思うかたは、どうか西欧の教養ある人たちの洋服をまねていただきたいですね。今、都会で見かける若い人たちの服装がいくら流行だからといって、あのような格好を皆さんがまねなさるのは、教養が疑われると思うのですが。外国人がご愛嬌にきものを着ることがありますが、たいてい安物で程度の低いものを着るからでしょう、私たちから見るとちぐはぐでおかしなきもの姿に見えますね。それと同じような感じに洋服を着てはいけないと思うのです。
日本の教養ある人たちのきもの姿は、けっして流行を追ったり、奇をてらったものではありません。自分の風格にふさわしい、それでいて時代感覚にも合ったきものを着ています。
西欧の教養ある人たちもきっと同じだと思います。みだりに流行を追ったり、人に不快感を与えるおかしな格好はしていないと思うのです。そして、きもののしきたりと同じように、洋服にもちゃんとした約束事があると思うのですがー。
もし、洋服をお召しになるのなら、西欧の文化程度の高い人たちをお手本にして、洋服の約束事を守った、それこそ、下着から靴からきちんとそろった装いをしていただきたいと思うのです。
ほんの夏だけのまにあわせだから、どうせ洋服はわからないんだからと、いいかげんな気持ちで洋服を選ぶのもいけませんね。きものを選ぶときと同じような気持ち、目でもって選ぶべきでしょう。洋服だからと、ことさらはでにとか、きものと違った感じにとお考えになることはないでしょう。私の今までの経験からみても、洋服の感覚のいいかたはきものの感覚もいい。だから、きものの感覚のいいかたは洋服の感覚もいいはずだと思います。ただ、洋服になれていないかたは洋服に自信がないせいでしょうか、きもののいい感覚を洋服に発揮できないことがあるようです。洋服ということにこだわらずに、自信を持ってきものの感覚で洋服を選んでみては、と思います。
ほんとうの美しさで注目されるように
ご存じのように、昔は季節に合わせた着分け方を堅く守っていたものですが、近ごろは季節感の先取りとでもいうんでしょうか、ほんとうの季節よりもだいぶ早めにお召しになるかたが多いようです。もちろん季節感は「六日のあやめや十日の菊」のようなおくればせな表現では新鮮味がなく、かえって間が抜けて見えるものですが、そうかといってでたらめな季節感の先取りはどうでしょうかー。たとえばここ数年、四月ごろになると目につくのが紗の羽織です。ご承知のように、紗はすける布地です。同じひとえものでも、透ける布地はふつう盛夏のものとされているわけで、いくらちりよけのおしゃれ羽織といっても、まだ肌寒いころの、しかもあわせのきものの上に、透ける紗の羽織というのはおかしいものです。よくわかりませんが、洋服でいえばウールのワンピースの上に、透ける薄物の上着を重ねたというようなことではないかと思うんですがー。
レースの羽織なども、同じですね。レースはそのうえ、きものとの調和ということも問題になります。レースは西洋生まれ、そのバタ臭いものを日本古来のきものの上に合わせるむずかしさ。対照上美しく調和するはずがないと思います。レースは高価で、着ていると裕福そうに見える、目だって見えるという考えでお召しになるのでしょうけれどー。
あわせに紗の羽織も同じように、流行だから、また、人より目だって見えたいという意識からお召しになるのでしょう。
人間は誰しも他人に自分を認めさせようとする意識があります。この意識を持っているからこそ進歩し、向上するのだと思います。しかし、他人に認めてもらうには、美しくりっぱな人(きれいで裕福にりっぱというのではなく、風格が美しく、りっぱということです)ということで認めてもらわなければなりません。女性の場合には、このほかにかわいらしいということもつけ加えなければなりませんね。けっして変わった格好や行動、富の力で他人に自分を認めさせようと思ってはなりません。変わった格好や、豪華な装いをした人々を、人は確かにふり返りますが、それはけっしてその人の美しさを観賞して注目しているのではありません。あきれた目、軽蔑の目、嫉妬の目で注目されるのでなく、「ああ美しい人だ」「なんて様子がいい」という目でふり返られてほしいですね、女性はー。
きものは、長い間の歴史の中から生まれ、季節に結びついたしきたりがあり、そのしきたりがあざやかな季節感を作り出しているのですから、季節感のないきものは味気ないし、狂った季節感はおかしなものです。昔に比べると衣がえのしきたりがくずれてきた今日でも、あまり極端な季節感無視は教養を疑われますね。
あわせのきものに軽いひとえ羽織を合わせたいとお思いでしたら、透けない布地のひとえ羽織をお召しになるのがほんとうでしょう。紗のような透けるものは、五月も半ばを過ぎてひとえのきものの上に羽織ってこそ、美しく調和するのです。
きものの本義をしっかり考えてお召しになることがたいせつですね。