先代のコラム
- 戦後の店舗 銀座一丁目店 看板
きものを女らしく着るために
何かを着て初めてその人がわかる
今までだいぶ堅い話が多かったので、今月は肩の凝らない話から話を進めましょう。
昔、温泉場はよその人といっしょに大きな温泉にはいるということが多かったものです。温泉にはいっているときはみんな裸ですから、その人の体型や容貌しかわからない、つまりその人がどんなひととなりなのかわからないわけです。それが、温泉から出て下着をつけ、長じゅばんを着、きものをだんだん着ていくうちに、その人のひととなりがはっきりわかってくるものなのですね。境遇や教養、感覚など、裸のときにはいっさいわからなかったものが、きものを着ていくうちにわかってきます。
服装はそれほど人間にとってたいせつなものなんです。おかしな服装をすれば、その人の知性、教養が疑われます。ですから、服装をおろそかに考えてはいけないと思うんです。
しかし、世の中には、服装より中身がたいせつなのであって、中身、つまり人間さえすぐれていれば服装なんかどうでもいい、ということを言う人もあります。もちろん中身があっての装いですが、服装なんかどうでもいいという説には、わたしは賛成できませんね。こういうことを言う人は、人間にとって美というものはどういうことかを知らない人だと思います。
ほんとうの美を追求していけば芸術的な美しさとなり、それは美しい人の心の問題になります。この美しさを見分ける力は、お金で買ったり譲ったりすることのできない、人間としていちばんたいせつな尊いことなんじゃないでしょうか。美を知らない、知ろうとしないで、教養ある人間になれるでしょうかー。いくら頭がよく、すぐれた人でも、かたよった教養を持つ、人間として円満ではない人だと思いますね。
わたしは、服装、つまり外側さえよければ中身はどうでもいいと言っているのではありません。風格をつくる努力をするということはまずたいせつです。そしてそれと同じように、その風格にふさわしい美しい(華美というのではありません)装いをするということは、たいせつなことだと思うのですが。
より多くの人々に、装いで、きもので、自分の教養、人格を知ってもらう、わかってもらうことも、人間として一つの要点かと思うのです。
中国では、初対面の人に紙と硯を出し、書を書いてもらうことで、その人の教養(学問学歴ではありません)を知る、その人のひととなりを知るということがあるそうですが、きものもそれと同じではないでしょうかー。
ただし、服装で人を判断するというのは、けっして、貧富、身分などを判断するのではありません。りっぱなものを着ているから、りっぱな人間というのではありません。安いものを着ていてもりっぱに見える人もいるのです。あくまでも、教養が高いかどうか、つまり美がわかる人かどうかということを判断するのです。
それでは、教養高く、風格ある人間に見せようとした装いをすればいいかといいますと、中身の伴わない背のびした装いは、必ずどこかに無理が出ます。二十代の人が四十代の人の教養をまねして装っても、それは似合わないことはもちろん、不自然でおかしい。理想は高く置いても、現実をふまえた装いということがたいせつですね。
月謝を払って勉強する
いいきものを着るためには勉強をと、今までその方法をいろいろお話ししてきましたね。自然から学ぶこと、すぐれた美術品を見、芸術品にふれること、本を読んだり、他人から学ぶことなど、いずれも、美を見る目が養われて、頭に高い感覚がはいってきます。これで充分いいきものが選べるように思えますが、しかしこれだけでは、いいきものは選べません。では、どうしたらいいでしょう。
それは、実際に自分で買って着るという体験をしなければなりません。何事も、実際に自分で体験をしないと、ほんとうに自分のものにならないのです。
わたしの経験を一例にとってお話ししましょう。わたしは清元の持つ洗練された美しさにひかれて、十七歳の時から師匠について習っているのですが、近ごろ、多くの人の中には、演奏会なんかで師匠が語ったものをテープにとれば、そのテープで練習ができて便利だと言う人がいます。なるほど、現代的で時間も費用も経済的ですが、こういう人は先生の声をなぞるだけで、いっこうに自分の清元が語れない。基本練習ならそれでもいいんですが、だんだん修業して、自分の芸、つまり個性を表現したいと思うようになると、テープではだめなのです。ちゃんと月謝を払って、先生に直接指導を受け、いっしょうけんめい研究して、先生の前で語って、しかられて、直されて、真剣に教わる、こうして修業しないと、自分の芸はつくれません。
きものも同じことなのです。たくさんの知識を頭に詰め込んでも、実際に自分で買って失敗して、また買って失敗して、と、苦い経験を味わわないと、ほんとに自分のものがつかめません。きものも、月謝を払わないと、いいものが選べないのです。
きものを買って失敗するなんて損だと思いがちですが、物を買うと思わず、美を買う、教養を買うと思えば損ではありません。買ったことによって、美の勉強ができたと思うことです。買い物をして失敗すれば、次の機会から真剣に買い物をします。賢い買い物をしようとするから、いろいろと勉強をする、とにかく買って実感を味わってみることです。そして着てみることです。
私が毎月お話ししているとおりにすれば、たちどころにいいきものが選べるなどとは、お思いにならないでください。特に教養の一部である“美”はお金や知識で明日からわかるという簡単なものでなく、積重ねの年月のかかるものだと知っておいていただきたいんです。
昔の女の気持ちできものを着る
肩の凝らない話のついでに、もう一つくだけた話をしましょう。ただし、表現は肩の凝らない話ですが、言っていることはとてもたいせつなことなので、ぜひともわかっていただきたいのです。
それは“女らしい”ということなのです。
皆さんは“女らしい”ということはどういうことだとお思いですか…。わたしは、それは男性と違う物腰だと思います。
さて、その男性と違う物腰ですが…。
失礼ながら、近ごろの皆さんは下着、つまり、パンティを身につけておいででしょう。昔の女の人は、ご存じのように、そういう下着はつけていませんでした。たいせつな所が、もしかしたらあらわになってしまうかもしれない、だから、立ってもすわっても、歩いていても、あらわにならないように、何をするにも、そこに神経を集中して動いていたわけで、自然、歩くのも内股で小股に歩き、立ち居ふるまいは控えめでしとやかになります。つまり、おのずから女らしくなっていたのです。
それが、今日のように完全に隠してしまうと、安心感が出てしまう。隠してしまえば大事な所ではありません。あらわになる心配がないとすれば、動作も自然大きく、荒っぽくなります。しとやかさが欠け、女らしくなくなってしまいます。
だからといって、今日きものをお召しになるかたに、昔の女の人のように下着をつけないでいなさいというのは無理な話ですね。わたしがお願いしたいのは、せめてきものをお召しになったときは、隠そう、隠そうとする、はじらいとでもいう気持ちを持って、立ち居ふるまい、物腰をしていただきたいのです。こういう気持ちを持ってきものを召していただけば、歩くときもあまり大股にならないでしょうし、手を伸ばすときにはそっと袖口を押えるというふるまいが自然に身についてきて、美しいきもの姿になることと思います。そして、それがしとやかで女らしいということになるのです。
近ごろでは、きものを着ているだけで、だいぶ女らしく見えるような世の中になりましたが、ほんとうに女らしくなければ、きものは似合いません。女らしく見せかけるのではなく、内面からにじみ出る女らしさできものをお召しになっていただきたいものですね。
女性は男性に、かわいらしいな、女らしいなと思われなければしあわせではありません。それはなにも、男性に対して卑下していることではありません。生き物すべてに両性があって互いにひかれ合うという自然の法則は人間とて同じことで、男性に女らしいと思われない女性、女性に男らしいと思われない男性なんて、どちらも寂しいじゃありませんかー。
男性に、つまりあなただったらご主人に、いつもかわいらしい、女らしいと思われるような女性の営む家庭は、いつも家庭円満だと思います。