先代のコラム
- 戦後の店舗 銀座一丁目店 裏路地
きものを美しく着るために
振り袖と黒の羽織に思うこと
きもの美の向上一筋に生きてきた者には、近ごろ「ああ、いいお好みだな」とじっと見とれるようなきものをお召しのかたが少ないので、町を歩いていても、お集まりの席に行っても、どうも寂しい気がしてなりません。ですから、きもの姿のお嬢さんがたが多くなるお正月や三月の謝恩会時期は、いろいろな角度で勉強ができて、心楽しく思います。
しかし、晴れ着姿のお嬢さんがたを見ていると、私どもとして気にかかることが、一、二あります。
その一つは、振り袖や訪問着に何もはおらず、町を歩いたり、電車やバスに乗ったりしていられることです。長い年月、ほんとうの美しさ(芸術的美)を、と心をくだいてきものを手がけてきた者にとっては、むきだしのままの晴れ姿はなんとなくいたいたしいばかりでなく、たいへん失礼な言い方かもしれませんが、その環境や教養が見すかされるような気がして、残念に思えます。振り袖や訪問着は、洋服でいうイブニングドレスやカクテルドレスに相当するものとか?聞けば欧米では、イブニングのまま町を闊歩したり、バスに乗ったりはしないそうですね。そういうときにはコートか何かをはおると聞いています。きものも同じことで、町中を歩くときはコートをお召しになっていただきたい。
この場合のコートは、染めでも織りでも晴れ着らしい風格のあるものの道行コートでよろしいわけですが、別あつらえ以外の一反物では振り袖用には普通の袖丈にしかなりませんから、もし、一反物で振り袖の上にはおるのでしたら、振りにスナップをつけておけば、振り袖のたもとをたたんで入れたあと、スナップを止めておくとたもとが出ないで見苦しくなく、お若いかたの場合、一応形が整うかと思います。
読者の皆さんの中にも、お年ごろのお嬢さんをお持ちのかたがおいででしょう。どうぞ振り袖や訪問着を作ってあげるときには、いっしょにコートをそろえてあげてください、とお願いしたいです。
振り袖は、ほんの一時、数回の命ですが、コートは、このさきお嬢さんが結婚なさったあとも重宝なさるものなんですから。
お正月の晴れ着でもう一つ気にかかることは、その人に合った個性的なきものを着たかたが少ないということです。ひらひらとはなやかではあるけれども、わたしにはみんな同じように見えてしまうのです。今は昔のように、一人一人のお嬢さんがたに合わせて柄を描き色を決めて制作したきものを着るかたが少なくなり、産地や大きなメーカーがつくり出した流行と称するきものが大量に出回り、自然にその流行と称するものに乗せられてしまうという傾向が強いからでしょうか?
流行ということでは、毎年、三、四月になると見かける、卒業式、入学式に出席なさるお母さんがたの黒の羽織、これも一つの大きな流行とみていいでしょう。
流行を見きわめる目をもつ
もともと紋付きの羽織は、紋付きのきものを着るべきときに、簡略化して着る略装として用いられるものです。わたしの記憶では、戦前には学校行事に今ほど黒の紋付きが目につかなかったような気がします。
学校の式は、お子さんたちの一生のうちの晴れの儀式ですから、式場に参列なさるお母さんがたの服装も、それにふさわしい儀礼をふまえたものになさるのは当然なのですが、皆さんが皆同じ黒の流行を追わなくてもいいのではないかと思います。なにも羽織にこだわらずに、さきほどもお話しした、紋付き、縫い紋のきものや、付下げや軽い訪問着などをお召しになってもいいんじゃないでしょうか。学校に訪問着なんて華美すぎるとおっしゃるかたもありますが、そこは模様と色しだい、お召しになるかたの教養で選べば、けっしてこれ見よがしのきものにはなりません。
控えめにと思うかたでしたら、やはり紋付きの羽織になりますが、黒に限ることはないと思われます。ご自分に似合う色の中で、儀礼にふさわしい品のいい美しい色を選んで紋付きになさればいいでしょう。 さらに進んで考えれば、大儀礼ではないのですから無地にこだわることもありません。はではでしい絵羽模様でなければ、軽い付下げ風に柄を置いたものなどでもいいわけです。したがって紋にそれほどこだわることはないと思いますが、付けておけば他の儀礼に利用できるという考え方もあるでしょう。
私はけっして流行を否定はいたしませんが、流行を見きわめる能力をみな皆さんに持っていただきたいと思うのです。誰が見ても美しく、しゃれていて、「私も着てみたいな」とおおぜいの人が自然に同調する流行と、大きなメーカーや産地の打ち出す商業主義でつくり出された流行、同じ流行でもこの二つが考えられると思うのです。前者の場合は、同調なさるかたの美しいと感じた意志があって選ぶのですが、後者の場合は、流行だから、人が着ているから着てみようというだけで、それを選んだ自分の意志がありません。
わたしの経験から言いますと、自分にどんな風格のものが似合うか、がわかっているかたは、けっして流行を追いません。流行と、自分に似合うものとは違うという考えを、しっかり持っていられます。
こういうかたは、少々古いものでも、しっかりご自分のものにして着こなしてしまい、それがちっとも時代遅れには見えません。これが知性ある個性というものでしょう。
きものは容姿でなく風格で着るもの
自分に何が似合うかわからない、自分の個性がつかめないかた、こういうかたは勉強なさることです。
感覚的研究の欠けている呉服屋やデパートで、「何か私に似合うものを見てちょうだい」などという安易な気持ちを持ってはいけません。
勉強の方法は、いつもお話ししているように、まず自然から美を学び、つとめてすぐれた絵画や美術工芸品などの美しいものを見て、ご自分の目を養うこと、次に自分を冷静に見つめて、自分のあり方を知ること、そして、お手本になるような他の人のきもの姿をよく見ること。
さきほど、美しいきもの姿のかたが少なくなったと申しましたが、それでも、お芝居やお茶会などに行くと、美しいきもの姿のかたを見かけることがあります。美しいということは容姿が美しいとか、きものがすばらしいということではありません。いかにもそのかたにふさわしいきものを着ていて、内容がにじみ出ているかたとでも言いましょうか。そういうかたたちの中から、年齢、容姿、生活程度がご自分と同じようなかたを選んでよく観察なさることです。観察といっても「あの帯高そうね、いくらぐらいかしら」などという物の価値判断や「あの色にこの色が合う」などという理屈で見るのではなく、まず中身の人間をごらんになることです。容姿のほかに、教養、性格、家庭環境、話し方、動作などすべてをひっくるめたそのかたの人となり、風格とでもいうんでしょうか、それをしっかり見て、感じとっていただきたい。その風格を感じとったうえで、身につけているもの、きものをごらんになると、そのかたがご自分をどう認識しているかがよくわかり、どうして着ているものが似合ってるのか、美しいきもの姿というのはどういうことなのかがおわかりになると思うのです。これでご自分を知る手がかりができたはずです。
すべて“物”は背景によって生きも死にもします。デコラのテーブルの上に志野の茶わんを置いても似合いませんし、茶わんはもとより、テーブルも生きません。きものも茶わんと同じ“物”です。この物を生かすには“背景”すなわち人間をよく知ることです。しかし、背景といっても人間は生きているのですから、外見だけでは判断はできません。中身、内容が問題なのです。
きものは究極には内容、つまり風格に合わせて着るものなのです。自分の似合うものを選ぶには、自分の風格をつかむことですね。それには他の人を見ることによって、自分を知る手がかりが得られるわけです。
自分より高度な人をお手本に
ただ、人を見るといっても、ご自分より高度な人を見るのでなければなんの意味もありません。誤解のないように申し上げておきますが、高度というのは、身分、地位、経済的な意味の高度ではありません。感覚的に高度な人という意味です。美の感覚は、自分で心して高める訓練をしないと鈍ってしまい、美しいものが理解できなくなり、おいしいものが味わえなくなってしまうものなのです。
すべて、自分を高めようという姿勢で環境をよりよくし、高度な人とつきあい、本を読み、音楽を聞き、美術を見る。といっても、身分不相応な背伸びをしろと言っているのではありません。謙虚な気持ちで、自分より高度な人、物から学びとるという姿勢を持つということなのです。ですから、わからなかったら、すなおな気持ちでわかる人から教えてもらうことですね。知らないことを恥ずかしがってはいけません。そして、知ったかぶりをしないことですね。わからないことはすなおにわからないと言い、教えを請い、勉強することです。
戦前は、商売人としての誇りを持った経験の深い店員や、番頭、主人が多かったので、きもののことならなんでも、安心して任せられたものですが、戦後は、どうしても専門家としての使命感が薄くなり、特に感覚的な面での信頼度が低くなりました。もちろん「最近の羽織丈は?」などという事務的なことはどんどん相談なさっていいでしょう。
今月は、美しいきもの姿になるための、精神面でのお話をいたしました。実際的なお話はこれからおいおいに。