先代のコラム
- 展示会風景 昭和30年代
美意識を持つということ…
デザイン盗用はお金を盗むより悪い
今まで、我々売り手から見たお客さまである皆さまがたに、いいきものを着ていただくための話をしてきましたが、今月は、染め屋や機屋の製作者や、デパートや呉服店などの売り手の、美に対する姿勢とでもいいましょうか、そんなところから話を進めていきましょう。
新聞などで、海外で外国製品をまねした日本商品が問題になった記事を見ると、ほんとうに情けなく口惜しくなりますね。どうして人が苦心したものをまねするんでしょう。わたしはアイディアとかデザインは、人が心血を注いだものなんですから、それを盗むのはお金を盗むより悪いことだと思うのです。
きものの世界でも人まねやデザイン盗用が多く、それにまつわる笑えない笑い話がたくさんあります。たとえば、鴨川の河原に干しておいた友禅を土手の上から写真にとり真物より早く市場に出してしまったとか、展示会で柄をメモしたり、写真をとったり、はてはめぼしいものを買い占めて、それをすっかりコピーしてしまうなどー。数え上げればきりがありません。模様は筆記や写真でもわかりますが、織りの組織は布地をほどいてみないとわかりにくいものなので大量に買っていくのです。まねする、盗む人たちの仕事の早さは驚くベきもので、その点は感心しますね。もっとも、早く作って、真物より先か同時くらいに売りに出さないと売れないのがにせ物の常です。
どんなものでも、真物よりにせ物のほうがすぐれているということはまずありません。ましてただもうけたい一心だけでまねをしたものに、いいものがあるはずはありません。
真物よりすぐれたにせ物はない
だいたいにせ物は、安く、手間をかけないで、早く売れそうなものを作りたいという心から、人のデザインを盗むのですから、素材の布地も染料もいいものを使わないし、手間もできるだけ省いて作ろうとするわけです。ですから、同じ風合い、同じ色に染め上がるはずがありません。織物の場合には、手織りの柄をそっくりまねて機械で織るということになります。つむぎの柄を、ウールで織ったりすることもあります。
その柄は手機で織ってあるから迫力のある美しいものができるのであって、同じ柄を機械で大量生産してもほんとに美しいものはできません。機械織りには機械織りに向いた、ウールにはウールに向いたデザイン、柄というものがあるのです。自分で研究、努力もしないで、人の労苦を盗む、いいものができるわけがありません。言わせていただけば、道徳心のない人には、真にすぐれた美しいものはできないと思います。
皆さまにいつもお話ししているように、製作者も売り手もいいものをたくさん見て、自分の感覚をみがくことはたいせつなことです。わたしなども、古い能衣装や更紗などの古代裂を身のまわりにおいて、毎日ながめていますが、それだからといって、能衣装の模様をまねて、現代のきものを作るというのではありません。毎日、身近にながめてそれを作った作者の心を感じとるのです。よく地方の製作者は上京したおりなどに、時間があるとデパートや専門店を見たがるんですが、そんな時わたしは、博物館へ行けとすすめます。仏像でもよろいでも、古い、いいものを見て作者の心、気迫を感じとる、そのほうが、今時の流行商品を見て歩くよりどれほど勉強になるかわかりません。
古いものは確かにいいものが多いのですが、しかしそれをそっくり現代のきものにまねても、現代の女性には似合いません。文楽の人形に今できのきものを着せても似合わないのと同じように、現代の女性に古いものそっくりを着せても似合いません。これが時代感覚というものです。
女心を深く理解する
話が横道にそれましたが、このほかにきものの製作者は、古典的な何か、たとえば歌舞伎とか文楽とかの趣味を持つといいと思います。人形や女形が演じる女のきものや身ごなしなどの具体的なことを学ぶこともたいせつですが、それよりも歌舞伎や文楽の世界に表現されている人情や愛情を理解することです。芝居を数多く見ていると、不思議なことに作るものに女らしさが自然ににじみ出るようになってくるのです。きものというものは、長い年月、歌舞伎や文楽の世界の女たちのような女性によって着続けられ、伝えられてきたのですから、もう今では過去のものになってしまった世界の人情や愛の姿をせめて芝居から理解することによって、きものを着た女の女らしさ、女らしい心というようなことを考えてほしいと思うのです。
女らしさとか女の心を理解するということでは、もっと直接的で、きびしい言葉を思い出します。それは、今はもう亡くなった、わたしも尊敬していた有名な製作者の先輩が、きものについてあれこれいう若者たちの前で「君たち、えらそうなことを言うけれど、女にほれられたり、ふられたりしたことのない人間に、女のきもちがわかるかー」と言ったことです。こんなことを言いますと、今時の若いかたは、なんかだらしない、不潔な感じをお持ちになるかたもいらっしゃるかもしれませんが、ほんとうの意味は、それほど深いつきあいをしないと、女の深い心理はわからない、女の心理がわからないものに、なんで女らしいきものが作れるか、ということなのです。
もう今日では、こんな名人気質みたいな人物はいなくなってしまいましたが、先輩の言った名言の精神は今日でもきものにたずさわるものが忘れてはならないことだと、わたしは思うのです。
自分の美意識を持つ呉服屋に
さて売り手の呉服屋ですが、このような製作者の苦労のにじんだ商品を扱う呉服屋は、安易にただもうけることだけを考えて商売をしてはいけないと思います。いつも美意識を養い、自分独自の美の感覚、つまり個性を持たなければいけません。あそこの店であんなものが売れているから、今こんなものが流行だから、と迷い、ほかの店と同じような商品が並ぶなどということは、一流の呉服屋ではありません。お菓子を買うときにようかんはどこ、もなかはどこと定評のある一流の専門の店があるように、きものもその店でなくてはならないという個性を持たなければなりません。その個性は、主人の美意識や好みの感覚によって違うわけで、これは、親子、兄弟といえども妥協は許されません。
私事で恐縮ですが、同じ「むら田」でも、わたしがやっている店と、東京で息子がやっている店とでは、品物の選び方も経営方針も違い、お互いにまったく独自に仕事をしています。親子ですから、ひとさまがごらんになると似通った好みのように見える面もあるようですが、よくごらんいただくと親子でも感覚が違うことがおわかりいただけると思います。親子だからお互いに協力してという見方もありありますが、それではお互いの個性がなくなってしまい、それぞれの個性を買って来てくださるお客さまたちに申しわけないと思うのです。親子でも仕事の上ではライバル、そんな考え方でないと、その店の個性、特徴は出せません。
呉服屋は、きものについて能弁に語っても、着ているもの、持っているもの、つまり生活状態に美意識のない人は、ほんものではないと思います。ひとさまに美しいものをおすすめするものが、美しいきものを着ていないで、なんでひとさまに納得していただけるでしょうかー。美しいきものといっても、高価で豪華なものというのではありません。お客さまのお相手をするにふさわしい、目だたない質素なもの、そういうものの中で美しいきものということです。そして、更にすすんでいうならば、店のしつらえも、店に飾る花一輪もお客さまにお出しするお茶わん一つにも、主人の美意識が貫かれていなければなりません。
近ごろは何でも情報が氾濫して、きものについても技術的、実際的な知識をお持ちになったお客さまが多くなりました。このようなかたたちは、それできものの物知り、きもの通になったとお思いになり、店を選ぶにも品物を選ぶにも、その知識をたよりにしがちです。もちろん、そういった知識を持っていて損はないのですが、知識だけをたよりになさって、美しさを真剣に追求するいい店、製作者の気迫のこもった美しいものを見失わないようになさってください。枝葉末節にこだわって、真の姿を見失わないようにとお願いしたいのです。
今月は、製作者や呉服屋の話をしながら、美しいきものとは、女らしいきものとは、ということについてお話をしたつもりです。