コラム

きものの話あれこれ 村田吉茂
1971年(昭和46年)9月「ミセス」掲載

No.9 相応ということ
分不相応は美しくない

 いつもお話ししていますように、服装はそのかたの人となりを表わします。それゆえ、着るものを選ぶのはむずかしい。お若いお嬢さんならば、若いということで流行のものでも不似合いなものでもある程度自由に着ることが見のがされるでしょうが、ミセスともなると、好きなものを自由に着る、ではすまないのではないでしょうか…。

 基本的な考えですが、そのかたの人となりを表わすような装い、それは、分相応の装いということではないでしょうか。分相応、身分相応といいますと、いかにも封建的な、身分制度の強い時代の言葉を連想しがちですが、わたしが言いたいのは、階級的な身分ではなく、そのかたの人間的な分です。

 そしてそれは、けっして経済的な金銭の枠でもありません。ご自分の人間的な枠をわきまえるということなのです。

 これはたとえですが、年配の会社の会長夫人と若い普通の社員の奥さんがいるとします。その会長夫人が社員の奥さんのようなきものを着、普通の社員の奥さんが会長夫人のようなきものを着る、これはどちらも分不相応といえましょう。といいますと、皆さんは「そりゃあ、経済力、社会的地位が違うんだからあたりまえでしょう」とおっしゃいますね。もちろん、経済力、社会的地位の違いも考えなければなりませんが、なによりも違うは、長い年月人生経験を積み、教養(学問、学歴ではありません)を深めてきた年配の会長夫人と、まだ人生経験の浅い若い社員の奥さんとの、年輪とでもいうべき人間の厚み、いつも申し上げている風格の違いです。

 お互いに風格が違うのに、年配の会長夫人が若く装い、若い奥さんは背伸びをする、これが分不相応なのです。

 もちろん、会長と普通の社員では、経済能力が違いますから、経済的に見ても、お互いに分を守るということにはなりますが、しかし、お金がないから分をわきまえる、というのと、自分にはまだそれだけの風格がないからわきまえるというのでは、結果は同じようでも、意味がだいぶ違います。お金がないからという考え方は、ひとたび思わぬ大金がはいれば、風格にふさわしくない分不相応なものを身につける…ということになりかねません。

 分不相応なものは美しくありません。

 たとえば、大きなダイヤはお金さえあれば買えるものです。しかし、大きなダイヤを身につけて、いやみに見えず「なんて似つかわしく、美しい」とすなおに人に思われるのは、たいへんむずかしいことです。

 「大きく高価そうなダイヤ」とか「ダイヤだけが目だつ」といわれるようでは、ダイヤを身につける資格はないと思うのです。ダイヤの高価なことや大きさを誇るのではなく、似つかわしく、美しいことを誇るのでなければ…と思うのですが。

 大きなダイヤをつけるには、それにふさわしい風格を身につけ、そして日常生活がそろってこそはじめて、そのダイヤはそのかたにふさわしく、身につけて美しく見えるのです。

 きものも同じことがいえます。そのかたの年齢、教養、置かれた環境にふさわしい装いがそのかたを美しく見せるのです。

 背伸びした高価なものが美しくみえる、よく見える、と思ってはいけません。安いものでも美しいものがあるのです。ご自分の分相応のもので美しくなるということが、たいせつなのではないでしょうかー。

 ただし、常に、よりレベルの高いもの、より美しいものを望む心を持ち、毎日の生活を向上させるように努力をすることは、いつも申し上げているとおりです。

振袖「若松」 村田吉茂創案 昭和36年

振袖「若松」
村田吉茂創案 昭和36年