コラム

きものの話あれこれ 村田吉茂
1971年(昭和46年)8月「ミセス」掲載

No.8 毎日の暮らしすべてが勉強
美しいものに興味を持つ

 そう思って、わたしは、店やいろいろな会のおりに、美しい古代裂などをよく飾っておきます。黙ってお客さまのご様子を見ていると、いろいろなお客さまがいらっしゃいますね。店へはいるやいなや商品などに目もくれず、一直線にその古代裂をじっと見つめるかた、全然気づかれないかた、見ても興味を示さないかたなどー。

 熱心に見入るかたは必ずわたしどもに質問をなさいます。いつごろのもので、どこの国のもの、なんというきれ地なのか…等々。わかるかぎりは、わたしもお答えしますが、実に熱心に聞いてくださいます。このようなかたは、これで一つ勉強をなさったことになると思うのですがー。そして、芸術感覚も高くなったと思うのです。

 気づかないかた、興味のないかたは、いくら説明しても、こんなきたならしい布地、と思うだけでおわかりいただけない。

 ここで違いが出てくるのです。

 物を心眼で見ようとするかたと、ただ漫然と見るかたの違い、少しでも勉強しよう、向上しようとするかたと、そういう気持ちのないかたとの違いがー。

 心眼とは、ただ見るのではなく、印象づけて見る、心で見るということで、心眼で見たものはけっして忘れないものなのです。そしてそれは、色や柄のような外側に表われたものだけを見るのではなく、その物の心、つまり作った人の心を読み取るのです。

 いつの時代のもので、何に使われてなどという知識的なことを知ることも必要なことですが、そういった知識に気をとられて物の心を見忘れてはいけません。邪念のないすなおな気持ちで物を見れば、作った人の心を見ることが出来るのです。

 ご自分の感覚に自信のないかたは、このようにして、今まであまり興味を持たなかったものに目を向けてみる、心眼で見るように心がけるのです。そのかたが、すなおに勉強しよう、感覚を高めようとお考えなら、一つのものをきっかけにして、二度、三度と美しいもの、すぐれたものに興味を持つようになっていかれると思います。たび重なるにつれてそういうものに心がひかれるようになり、更に美しいもの、すぐれたものが見たくなってきます。そのような気持ちになればしめたものです。あとは、そのかたの勉強と努力しだいで、感覚が自然に高められていきます。

 そのきっかけになる美しいものは、なにもきれ地や衣装に限りません。花びんでもお茶わんでも、絵でもかまいません。美しいものならば何でも芸術感覚を高めるもとになります。

 さて、このようにして感覚を高めても、その感覚をきもの選びのときだけにしか使わないというのでは、何のために勉強したのかわかりません。きものさえ美しいもの、いいものを着ていれば、日常の生活はどうでもいい、という考えでは、ほんとうの芸術感覚を持っているかたといえませんね。

 すばらしいきものを着ていらっしゃるかたが、家では無神経なお茶わんでお茶を飲み、インスタント食品や、できあいのものを平気で召し上がっている、なんていうことがよくありますが、そういう暮らし方は、そのかたの風格のどこかに表われてくるものなのです。

 みそ汁一つにしても、心をこめて作り、季節感をたいせつにして、美しい器に盛っておいしくいただく、そのような日常の積重ねが感覚の勉強になるのだと思うのですがー。味つけから食器の選び方、ぞうきんがけに至るまで、日常のすべてに神経をつかい、心を打ち込んでなさることが、風格を高め、感覚をみがくことに通じるのです。

 美しいものに興味を持ち、そこから学んだ感覚を日常のすべてに及ぼす、そのような暮らし方、生き方をしていただけたらと思います。