コラム

きものの話あれこれ 村田吉茂
1971年(昭和46年)5月「ミセス」掲載

No.5 きものを女らしく着るために
何かを着て初めてその人がわかる

 今までだいぶ堅い話が多かったので、今月は肩の凝らない話から話を進めましょう。

 昔、温泉場はよその人といっしょに大きな温泉にはいるということが多かったものです。温泉にはいっているときはみんな裸ですから、その人の体型や容貌しかわからない、つまりその人がどんなひととなりなのかわからないわけです。それが、温泉から出て下着をつけ、長じゅばんを着、きものをだんだん着ていくうちに、その人のひととなりがはっきりわかってくるものなのですね。境遇や教養、感覚など、裸のときにはいっさいわからなかったものが、きものを着ていくうちにわかってきます。

 服装はそれほど人間にとってたいせつなものなんです。おかしな服装をすれば、その人の知性、教養が疑われます。ですから、服装をおろそかに考えてはいけないと思うんです。

 しかし、世の中には、服装より中身がたいせつなのであって、中身、つまり人間さえすぐれていれば服装なんかどうでもいい、ということを言う人もあります。もちろん中身があっての装いですが、服装なんかどうでもいいという説には、わたしは賛成できませんね。こういうことを言う人は、人間にとって美というものはどういうことかを知らない人だと思います。

 ほんとうの美を追求していけば芸術的な美しさとなり、それは美しい人の心の問題になります。この美しさを見分ける力は、お金で買ったり譲ったりすることのできない、人間としていちばんたいせつな尊いことなんじゃないでしょうか。美を知らない、知ろうとしないで、教養ある人間になれるでしょうかー。いくら頭がよく、すぐれた人でも、かたよった教養を持つ、人間として円満ではない人だと思いますね。

 わたしは、服装、つまり外側さえよければ中身はどうでもいいと言っているのではありません。風格をつくる努力をするということはまずたいせつです。そしてそれと同じように、その風格にふさわしい美しい(華美というのではありません)装いをするということは、たいせつなことだと思うのですが。

 より多くの人々に、装いで、きもので、自分の教養、人格を知ってもらう、わかってもらうことも、人間として一つの要点かと思うのです。

 中国では、初対面の人に紙と硯を出し、書を書いてもらうことで、その人の教養(学問学歴ではありません)を知る、その人のひととなりを知るということがあるそうですが、きものもそれと同じではないでしょうかー。

 ただし、服装で人を判断するというのは、けっして、貧富、身分などを判断するのではありません。りっぱなものを着ているから、りっぱな人間というのではありません。安いものを着ていてもりっぱに見える人もいるのです。あくまでも、教養が高いかどうか、つまり美がわかる人かどうかということを判断するのです。

 それでは、教養高く、風格ある人間に見せようとした装いをすればいいかといいますと、中身の伴わない背のびした装いは、必ずどこかに無理が出ます。二十代の人が四十代の人の教養をまねして装っても、それは似合わないことはもちろん、不自然でおかしい。理想は高く置いても、現実をふまえた装いということがたいせつですね。

戦後の店舗 銀座一丁目 店 看板

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