コラム

きものの話あれこれ 村田吉茂
1971年(昭和46年)2月「ミセス」掲載

No.2 染めのきもの 1
江戸小紋の味

 染めの種類には、技法でざっと分けると、友禅、型染め(この中には中型、小中型、江戸小紋、紅型などがあります)、ろうけち(正しくはろう染めと言ったほうがいいでしょう)、液描き、ゴムのり染め、さらさ、しぼりなんかがあげられます。

 この技法の、簡単な程度でいいからわかっていただけないと、話が進められませんから、ざっとご説明しましょう。

 まず、友禅ですが、友禅はもち米とぬかを混ぜて作った防染のりを柄のまわりに細く置き、その中に染料を差し、その上をのりで防染します。次に地色を染め、蒸して色止めし、水もと(水洗い)するというのが、ざっとの工程です。本友禅は手描きでのりを置きますが、型紙でのりを置く友禅を型友禅といいます。型友禅の型紙の数は、だいたい色数だけいるわけです。

 何事も、昔に比べると技術が分業化され、一人の職人が始めから終わりまで手がけるということがなくなりました。友禅も下絵を描く人、のりを置く人、染める人、と何人もの人が一反の友禅を手がけるわけで、のりだけ、染料だけを調合して売り歩く人もいるくらいです。こうなると流れ作業的で、いいもの、つまり入心度の高いものはできにくくなるもんです。おおぜいの人の手にかかるほど一貫した個性が乏しくなり、心に迫るものができ上がらないことが多い、一部分だけのかかわりあいだと、作る職人が、「自分がこれを手がけた」という気迫がこもらないんです。友禅染めは美しくはなやかには見えるけれども、心を打つ作品が少ないのは、こういうところにあるんですね。ろう染めなんかは、だいたい一人で描いて一人で染めますから、個性的な作品が多いんです。そのうえ、友禅などには、不必要な手を加えたものも多いですね。

 先月号のかすりの例でお話ししましたように、余計な手間をかけたものをよしとする風潮のせいか、染めの技法だけで充分美しいきものに、さらに、これでもかこれでもかとばかりに、金銀の箔を置いたり、刺繍をしたりする傾向があります。技巧を凝らしたほうが、高い値段で売れますからね。こういう余計な技巧に惑わされないことがたいせつだと思うんです。単純なものでも清楚なよさがあるんで、多色でなくても一色でも、たとえば江戸小紋のように気品があって、格調の高いものもあるんですから。

 江戸小紋が出たついでに、型染めの話に移りましょう。型染めは柄を切り抜いた型紙を布地に置いて、のりで防染して染めるというのがその手法です。柄の大きさによって、中型、小中型、極小の切彫り型なんかがあります。小紋でも、多色で染めたもの、色差ししたものなんかがありますが、小紋といえば、なんといっても江戸小紋ですね。いい型をいい職人が染めたものは、それは味があるもんです。食べ物でないのに味という表現は、言ってみれば、なんともいえずいい、芸感があるとでもいうんでしょうか、こんな微妙な表現は日本語だけにしかないんじゃないんですかー。いい江戸小紋は手仕事でなければ出ないいい味があるもんです。四寸(約十二センチ)の型紙を一ミリの狂いもなく送りながらのりを置いてゆくという高度な技術が必要で、亡くなった小宮康助っていう人は、この江戸小紋の型置きの技術で無形文化財に指定された職人です。こういう名人の染めた鮫小紋なんかは、じっと見ていると染めた人の心が迫ってくるような美しさがあるんですね。このごろは鮫小紋も機械で相当精巧に染められるようになり、わたしなんか玄人でも、ちょっと見は見まちがえるほどのものもありますが、よく見てみると鮫がきちんとそろいすぎていてむらがなくつまらない、味がないんです。そこへいくと、手仕事のものは、きちんと染まっているけれども、自然にできた染めの濃淡やかすれなんかがあって、それが実にいい味なんですね。部屋に飾る絵の真物と精巧にできた写真版の複製との違いでしょう。真物と複製とは、遠目は同じように見えても、そばでよく見ると違いますね。

 江戸小紋のように単純な柄で、単色で染めたものほど、職人によってでき上りが違います。職人一人一人によって置くのりのかたさから違うんですから、染め上がったものも当然違いますね。お仕着せののりを加減もしないで使うなんていうのはだめなんで、型や布地、その日の天候に合わせて加減する、いってみりゃそういうことが入心度で入心度の高い仕事でないといい作品にならないわけです。そこへいくと、機械染めには入心度はありませんね。手間も心の入れ方も、かける日数も違えばおのずから値段も違うわけで、手仕事が高くなるのはあたりまえですね。それに手染めと機械染めでは、使う染料が違うことが多いんです。同じ色のように見えるけれど、よく見ると、やっぱり味が違うということになります。